1 : 01 バナナプレッドのプディング

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バナナブレッドのプディング

1999年 6月20日
記事ID c90620

大島弓子の『バナナブレッドのプディング』は、自分の性をおそれる純粋病の少女をめぐる物語です。

少女が理想とする恋人は「同性愛者の男性」。

たしかにそれなら「安全」です。そして少女は「バナナブレッドのプディングが食べたい」といいます。「バナナ」を切り刻んで、砂糖などをくわえてプディングにしてしまう。非常に象徴的です。

単なる恋愛モノとみればハッピーエンドですが、いろいろ「謎」を残している作品でもあります。

いろんな性別の組みあわせの恋愛がえがかれて、その多くは未解決のまま。とつぜんラストで「まだ性別が決まっていない赤ちゃん」の話が出てきます。ファンのあいだでは、あまりにも有名な「サラの手紙」です。

「男に生まれても、女に生まれても、生きやすいということは、ない」とサラは言う。赤ちゃんは「それでは、生まれるのが怖い」という。すると、サラは、「まあ、生まれてきてごらんなさい。本当にすばらしいものが待っているから」と宣言する。……印象的なシーンです。

すばらしいもの、というのは恋愛や結婚では、ないんです。サラは新婚旅行の途中で、結婚相手がベッドで、となりで寝ています。そのベッドのなかで、サラは、ややうわむきかげんの視線で(細かいところまで象徴的なんですね)「本当にすばらしいものが待っている。わたしも、それがなんだかまだ分からないけれど」と言う。新婚旅行中のサラに「わたしもまだ知らない」といわせることによって、それが恋愛や結婚では、ないことを作者は明示しているわけです。

性的な意味で「おとなだ」とか、それに対抗して「純粋な少女」とか、そういう対立を越えたところで、「本当にすばらしいもの」という話が出てきて、「それは、いったいなんなのか? わたしもまだお目にかかったことは、ないのに、夢のなかで赤ん坊に自信たっぷりに答えていたのです」という、より大きな謎を残してストーリは終結する……

別の観点からすれば、少女の性という難しいテーマにまっこうからいどんでいる作品です。萩尾望都のことばを借りれば、「少女の微妙なこころのひだを、ひとつひとつ精緻にえがいている」。しかも晦渋にならずに、全体としては、謎めいた、甘ずっぱいかおりの、ふしぎな物語。

バナナというのが男性の象徴であるのはそれとして、ブレッド(小麦)は「母なる大地」つまり女性の象徴とも見られます。大島弓子自身が、作品中で「象徴的なプディング」ということばを使っていますが、そういう意味では「バナナブレッド」という合成語はアンドロジニー(男+女)と近いわけで、トランスジェンダー(男女の性別の区別を超越すること)を暗示しているともいえます。

つきなみなことばでいえば、肉体の性別を離れた深い精神愛。もっといえば、バナナブレッドの終着点は「まだ性別が決まっていない、これから生まれる赤ん坊」という“無性”の状態。そこからの再出発。「最高にすばらしいことが待っているから、生まれてきてごらんなさい」……

作品全体を通読すると、結局これは「始まる前の物語」「未来へむかってひらかれた物語」であり、そこに『バナナブレッドのプディング』の深い魅力があるのだろうと思いました。

バナナブレッドに漂うあこがれというのは、無性なるもの、妖精の世界へのあこがれに通じるような気がするのです……

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大島弓子の漫画 (チラ裏3題)

2019年 4月28日
記事ID e90428

バナブレは「漫画で何ができるのか?」という世界の枠組みそのものを変えた。綿国(わたくに)は、漫画・アニメ史上「猫耳の発明」という意味も持つ。もともとは「自分は半分人間だと思っている子猫」の主観的世界を表す絶妙な表現。

  1. サンザシのぼんぼり
  2. 新しい地平
  3. バナブレはバルトーク

サンザシのぼんぼり

画像「サンザシの木の陰から」 画像は以前、縁があったリーデさんから頂いたもの(もらい物なのでパブリックドメインではない)。新井昭乃の「妖精の死」の一節「サンザシの木の陰から その目でみつめて笑う」が画像化されたものだという。「無数の白い花の間からそっとこちらを見つめる妖精乙女―というイメージ」とのこと…。これはこれで、神秘的で美しい。

けれど「妖精の死」は、恐らくそういうメルヘンな歌ではない。鍵を掛けている部屋にまでいつの間にかやって来て「みつめて笑う」…それは、子どもがもう「無邪気な妖精」ではいられなくなるような「怪物」ではないだろうか。「その目がすべての邪悪」とまで言われているのだから。バナナブレッドの主人公の夢に出てくる「男か女か分からない鬼」みたいな存在。主人公の少女は、夢の中でこの鬼に食べられて「鬼になってしまう」。

吉原幸子の言葉を借りれば「近づいてくる変身の予感に/かすかにおののきながら…ふるい雛たちに…さよならを言う」。

新居昭乃の歌詞で言えば「密かに近づく足音…もうすぐあなたに触れてしまうかも…二度と帰れない…妖精のすみ家に」。

だから「妖精の死」なのだと。

この曲でお囃子(はやし)のように使われているフルートは、サテュロスの笛アウロスのつもりなのかもしれない。現実のアウロスはダブルリードで比較的低音の木管楽器だが(音の性質はオーボエやバグパイプに近い)、言葉の上では「アウロス=フルートの一種」とされることが多い。アウロスには、シューリグモス/スリグモス(συριγμός)と呼ばれる高音奏法(トランペットを思わせる音)もあり、フルートの音域の音が出せないわけでもないようだ。実際にアウロスを演奏しているサンプルが Hellenistic aulos にあるが、syrigmós の例は「妖精の死」の笛の感じに、ちょっと似ている。

新しい地平

1980年代の『ユリイカ』に「14、5歳で大島弓子に出会えた少女・少年は幸運だ。彼女たちが30歳になる頃には社会に新しい地平が開けるだろう」(要約)というような記事が載っていた。漫画文化に関する限り、この不思議な予言は的中した。サブカルだった漫画・アニメは、まさにそのくらいのタイミングで、日本が世界に誇る「表の文化」となった。

綿国は、作品自体も驚異的だったが、漫画・アニメ史の文脈では「猫耳という記号の発明」という意味も持つ。「猫耳萌え~」という安易な話ではなく、もともとは「自分は半分人間だと思っている子猫」の主観的世界を表す絶妙な表現形式だった(チビ猫という存在自体、ある意味、思春期の少女の気持ちのメタファーでもあった)。半人半獣の描写は昔からあっただろうけど、二重アイデンティティーの記号としての猫耳は大島によって確立された漫画文法だと思われる。

大島作品がアニメとしてあまり成功しなかったのは、純漫画だからだろう。「バッハの魅力を絵で表現することはできない」ように、大島の魅力はアニメ化しにくい。綿国のアニメ版は丁寧に作られていて、美しい。ナウシカ(どちらも1984年)とかち合わなければ、もっと注目されたかもしれない。けれど、やはりアニメの硬い線では原作のエッセンスが失われてしまい、違和感がある。

今、大島を読んで面白いだろうか? 手塚・赤塚・萩尾・つげなどの名作には、誰が読んでも面白い普遍性があるが、大島は読者を選ぶ作家だろう。出会うべき人が10代で出会えればラッキーでも、一般の人には、お薦めできない。柔らかい心を持つ少女のための作品。逆に、大島と似た傾向のものを挙げるなら、岩館真理子・篠有紀子の一部、別の方向性として陸奥A子の一部、マイナー系では花郁悠紀子が思い浮かぶ。

大島の「詩的直感」は恐ろしく鋭敏だが、半面、この種の作品は「夜見た夢をそのまま描いているようなもの」で、物語の構成は緩い。「バナナブレッドのプディングという菓子=ちょうどいい象徴」と、論理を超えてパッとそこに到達できる感性は天才的(サリンジャーの「バナナフィッシュ」も女性との結婚を恐れる男性の象徴だったかもしれない)。でも、だからといって、グイグイ引き込まれるような、ストーリーテリングの傑作ではない。

24年組(フォーティー・ナイナーズ=大島・萩尾・エトセトラ)は、いわゆる性的マイノリティーの世界を好んで描いた。作品内部では新しい地平が開かれたが、それは「現実世界を変えていこう」という前向きのベクトルではなく、むしろ後ろ向きのベクトルだった。「現実に戸惑い、ためらう少女たち」のための「逃避空間・緩衝地帯としての少女漫画の世界」。この構造の萌芽は最初からあったが(リボンの騎士)、結果としては腐女子の世界の礎石(そせき)となった。漫画全体が「表の文化」になるのと同時に、裏で別のサブカルチャーが生まれたのかもしれない。

ふんわりした不思議な表現形式

猫は外形的に「猫耳を持つ人間」の姿で描かれていますが、実際には「ただの普通の猫」であり、周囲の人々からは「ただの普通の猫」に見えてます。「猫耳を持つ人間」の姿は、あくまで主人公チビ猫(自分は半分人間だと思っている)の「主観的イメージを映像化したもの」。

客観的には「ただの猫」なのですが、その猫が「自分は未熟な人間=成長すれば人間になる」と思ってるので、画面上ではそのように描かれているわけです。同様に、猫たちは人間の言葉を話しますが、周囲の人々からは、単に猫がニャーニャー言っていると認識されています。…言葉で説明すると意味が分かりにくいですが、実際に作品を読むと(少なくとも想定されている読者層=若く未熟な人々にとっては)、何の違和感もなく、自然に(それどころか共感的に)理解できる世界観でした。

バナブレはバルトーク

大島弓子の漫画「バナナブレッドのプディング」は、音楽で言うとバルトークの弦四、それも一番有名な4番。

ある人はバナブレを「正気の沙汰でない」と形容した。クレイジーな漫画はいろいろあるが、好き勝手絶頂の「ヘルシング」だって、敵同士が戦うという点では「伝統的な文法」に従っている。バナブレの「異質さ」というのは、ピアノ曲で言うと「モーツァルトやショパンのような古典しか知らなかったとき、突然ミクロコスモスに出会ったショック」。優劣の問題ではなく、世界自体が違う。

弦楽四重奏とはこういうもの、という古典的イメージを持っている人が、バルトークに出会うと、しょっぱなからぼうぜんとする。第2バイオリンとチェロがゆるゆる鳴るところまでは、まあまあ普通だが、すぐ第1バイオリンが、けんかを売るように↑ファ♯ファーー♯レ | ミレド↓ソ♭ミ と言い切る。「何じゃこりゃ?」

バナブレもそんなふう。転入生に対して教師が「深刻そうな顔をしてどうしたの?」みたいな普通のことを尋ねると、いきなり「きょうは あしたの 前日だから…」「だから こわくて しかたないんですわ」

「少女漫画といえば恋愛がどうこう、スポーツがどうこう、目に星が…」的なイメージの持ち主がバナブレを読むと、ものすごい衝撃を受けるだろう。思春期の少女の微妙な内面世界を「当事者視点で」象徴的・詩的に作品世界化している。「お年頃だから…」という外部の視点ではない。

「わたしがインスタントコーヒーになってしまう日でもあるんです」

「バナナブレッドのプディングをたべたいと思ってます」

バルトークの弦楽四重奏曲・第4番は5楽章あるが、バナブレも5章(Part 1~Part 5)から成る。それはただの偶然だが、どちらの作品も「訳が分からないけど、これはこうなんだ!」という必然性を感じさせる。最初のうちは「こんな不協和音ばかりなんだから、楽譜の印刷ミスで音符が半音くらいずれてても、誰も分からないんじゃないの?」みたいな感じもするが、終楽章でバルトーク節が出て、完全にノックアウトされてしまう。
♯ド | ♯レ♯ファソラ | ↑♮ドレーミ | ファソファミ | レド↓ラー
ソラ↑ド↓ラ | ↑(レド)↓ラソ♯ファ
(♯レミレ)♯ド♯ファ♯ド | (♯レミレ)♯ド♯ファ
(ソ♯ファ)♯レ↓♯ラ | ↑♯ド♯ファ♯レー

普通なら気持ちいいメロディーは反復されるものだが、バルトークは1回だけやって、もうそこに戻らない。ワンヒットKO。

バナブレも、そんな感じ。「実験的なことをやりたくて、やってるわけじゃない。これはこういう世界なのだ」という「控えめな自信たっぷり」。ラストシーンでは、もう主人公も描かれない。関係ない人物が第3者に向かって「私自身にも答えは分からないけれど、私は夢の中で自信たっぷりに答えていたんです」という趣旨の謎めいた発言をして、幕となる。

バナブレは「少女漫画で何が表現できるのか?」という世界の枠組みそのものを変えてしまった。

アニメで言えば、精神的な意味では Lain に近いものを感じる(内容は無関係)。けれどバルトークや Lain と違い、前衛的・実験的という肩肘張ったものではなく、ほんわかした余裕さえ感じられる。本当に、一体何だったのだろう、この作品は…。

猫は人間になれないと説明されたとき、「綿の国星」(わたのくにほし)のチビ猫は嘆く。「なんでそんなこと おしえるのよ」と。有名な「鳥は鳥に…星は星」の場面につながるシーン。

チビ猫の前世ともいえる「いちご」は言った。「今日一日をけしさってください…そうすれば…昨日のわたしのまま幸せな無知な子どもでいられます」と。バナブレの衣良(いら)も言う。「赤ちゃんに生まれ変わりたい…そんなことは無理…みんな時間に区わけされてしまった」

いちごのキャラ設定「ラップランドの女の子」は新鮮だったが、疑問もあった。いちごは時々「母語?」の表現を使うのだが、それがスウェーデン語なのだ。彼女が特によく口にするのは tack(英語の thanks と同系)。設定の解釈にもよるけど、都市から遠く離れた場所を故郷とするラップランド人なら、母語は北サーメ語(北サーミ語)では…。「ありがとう!」はインド・ヨーロッパ系の tack ではなく、ウラル系giitu(フィンランド語の kiitos/kiitti と同系)のはず。

「スウェーデン」でなく「ラップランド」出身としたところに、大島弓子の感性の鋭さが窺われる。「スウェーデン」だと普通に現実の国だが、「ラップランド」から来た少女という設定だと、現実味が少しぼやけて「おとぎ話っぽさ」が高まる。「その世界の子どもから見た日本」は、チビ猫視点の世界にも近い。象徴的な意味では、ラップランド=綿の国/ホワイトフィールドかも…

日本に向けて出発するとき、いちごはキルナの手前から「ナルビク発ボーデン行き」の汽車に乗る。そのシーンだけから判断するなら「いちごの故郷はスウェーデンではなくノルウェー側」という可能性もある。けれど彼女は「ごめんなさい」と言うときスウェーデン語の förlåt を使うので、ノルウェー系ではない。スウェーデンのラップランド地方の出身だろう。そして「ごめんなさい」についても、ラップランド人なら ándagassii(フィンランド語の anteeksi のポホヨイス・サーメ・バージョン)を使うのが正解だったかもしれない(仮に出身地がノルウェー側だとしても、母語の方言は同じ)。

チビ猫も「中央線のようなもの」に乗るよね!

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「信者」が減れば教会は嬉しい

1999年10月 3日
記事ID c91003

尼僧が言う。「私たちの仕事は不幸な方のために働くことです。だからこの世から不幸な人がいなくなったら私たちの仕事はなくなってしまうので、顧客としてとっておくことが大事です。わかりましたね?」

―― 桐島いつみ『まっかな人間像』、第1巻より。

このネタは、意外に深い内容を含んでいる。たいていの宗教団体、自助グループは、会員数増加に努め、あるいはメンバの多さを誇り、退会者に対して純真でない。これは何を意味しているか?

信じる者は救われる、と仮定しよう。「救い」というものが完了するなら、救われた者は、もはやそこにいる必要がない。すなわち信者である必要は、なくなる。救いを完了できないなら、その団体は「看板に偽りあり」で、時に有害ですらあろう。図式的にいえば、相手が救済され独立し、去ってゆくことを、救済団体は喜ぶべきなのだが。

この問題の本質は「大乗」が可能なのか、ということだ(「妖精の国からのお知らせ」付録参照)。

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火の神

1999年10月11日
記事ID c91011

古代ギリシャの某都市。民会で激論が続いていた。子どもがたきびで大やけどを負ったのだ。「そもそも人間が火の神をあやつり、思いのままにするなど、おそれ多いことじゃ」老人が声をあらげた。「それは自然の摂理に、反しておる。人間の身で火力をあやつるなど、危険きわまること」

今は昔、そんな議論があったとは夢のまた夢、若者は無造作に湯をわかし、シャワーを浴び、自動車を走らせていた。

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