8 : 27 猫のしっぽを思い切り引っ張ることは十戒のどれに違反するか?

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猫のしっぽを思い切り引っ張ることは十戒のどれに違反するか?

2014年11月23日
記事ID e41123

南泉は言った。「この猫の命が惜しければ、禅を一言で語れ。さもないと猫を斬り殺す」

禅僧は即座に南泉を射殺した。「テロリストとの交渉には応じない」

趙州じょうしゅうは興味なさそうに立ち去った。「そんなことよりプリキュア見なきゃ」

猫のしっぽを引っ張ることは罪か

ここで重要なのは、もちろん、状況によっては猫のしっぽを引っ張っていい、ということだ。 居眠り中の猫の上に重い物が落ちてきた。 あと1秒で車にひかれる。 切迫した非常事態において、猫を助けたければ、とっさの判断でしっぽでも何でも引っ張ってそこから引きずり出す必要がある。 当たり前だ。

ユダヤ教では、この問題に明確な指針を与える教義がある(ピクアハ・ネフェシュ*1)。 原則として、人命を助けるためには、ユダヤ法を守らなくてもいい、というのだ。 というよりむしろ、人命を救うためにユダヤ法を破ることが必要なときは破らなければならない、というのがユダヤ法なのだ。 こういう「自己否定的」なメタ規則は、いい。 「動物の命はまた別だ」という主張は当然あるだろうが、準用できると言っているラビもいる。 イエスも「たとえ安息日でも、穴に落ちた羊を助け出すのは当然だ」と説いた。

しかし、この種の規則を教義として明文化して、いちいち条文を確かめて判断するのは非効率だ。 「猫のしっぽを引っ張ってはいけない。ただし次の条件を満たす場合は…」うんぬん。 教義が何ページあっても足りない。 大道廃れて仁義あり。 「手続き的な集団宗教」の欠点だ。 宗教が何かの支えになるのならそれは結構なことだし、仲良しクラブが楽しいことはよく分かるが、「良いと思うこと」をするという目的においては、宗教は必要ない。 宗教的戒律にとらわれることは、むしろとっさの判断の妨げになる。 「生き物に苦痛を与えることは絶対に許されない」という戒律をたたき込まれ、それで一瞬ためらう修行者は、猫を助けられないかもしれない。 同様に、教条主義は「愛する人と結婚する自由」を奪い、「良い人生の終わりを選択すること」を妨害する。

「殺人をやめろ! 人を殺すな!」そう叫びながら、産婦人科医をめった突きにする「生命尊重派」。 「テロは絶対に許さない! テロとは断固戦うぞ!」と叫びながら無差別爆撃を行う軍隊。 いかにもナンセンスだが、それがその人の信仰なら仕方ない。 同様のナンセンスを微妙に薄めたような現象は、意外とあちこちにありそうだ。 「何々=良い」という教典。 「何々=悪い」という教典。 「教典に従っているから、自分には責任はない」と心を曇らせる信者たち。 規則の古いキャッシュを読み続ける…。

「猫を助けなければいけない」という法則があるわけでもない。 「長く生きた方がいい」というのは、飼い主の勝手な考えだ。 猫は過去や未来のことなど考えないし、「しっぽを引っ張られた」ことと「自分が生きている」ことの間に因果関係があるとも考えない。 ただ、「今」、びっくりして不機嫌になる。 飼い主も飼い主だが、猫も猫だ。

*1 פִּקּוּחַ נֶפֶשׁ (piqqûaḥ nefeš) または פיקוח נפש―― しばしば pikuach nefesh と書かれる。 覚えても仕方ないかもしれないが、pikuach はピカチュー(Pikachu)の u が動いたと考えるとすぐ覚えられる。

巣立ちの日

「もし私が猫のしっぽをとても強く引っ張ったら、私はどの戒律を破ったことになりますか?」 禅の公案のようなこの質問は、 St Faith's Church(英国ハンプシャーの小さな教会)の Revd. Brian Williams による 2011年9月11日の説教の中に登場する。 説教自体は平凡で真面目な内容だが、この問いは面白い。 「神が結び合わせたものを引き離してはならない…?」という子どもの答えが、またかわいい(マタイ19:6参照)。 純真さに打たれる。 と同時に、「直観的に明らかなことをいちいち聖書の言葉にこじつけるのは、その純真さを惑わせる行為ではないか」とも感じる。 厳密に言えば、猫のしっぽが神の御業だという観念は、反進化論へのミスリードでもある…。

「先生は答えを知っているはずだ。問題には正解があるはずだ」という生徒の無邪気な信頼を踏みにじる質問。 それは悪いことだろうか。 実際には、先生はあらゆる答えを知っているわけではないし、全ての問題に答えがあるわけでもない。 答えを出すことに意味があるとも限らない。 この殺伐とした事実に、生徒はいつか気付かなければならない…。 だとしたら、どうしてそれが今であってはいけないのか?

「あなたがすることが正しいかどうかは、戒律の問題ではなく、他人が判断する問題でもなく、あなた自身の(あなたと神の間の)問題です」 生徒がそう見切った日、先生は深く喜びながら、同時に少し寂しい気持ちで、その子の巣立ちを見送るだろう。

「意味がありそうだが実はくだらない質問」の価値は、生徒が「意味がありそうだが実はくだらない」と見抜くかもしれないという点にある。 「明らかに無意味な質問」ではチャレンジにならないし、アホな人がアホな質問をしても始まらない。 尊敬されている人が意味ありげな質問をする。 それがチャレンジだ。 生徒は、自分の中の尊敬と闘わなければならない。 自分自身の直感を常識より優先させなければならない。 小難しい知識を並べて優等生になりたい、という欲求を乗り越えなければならない。 その決断を促すことができる教師は、優秀なのかもしれない。 うまくいったときには、自分が生徒に斬られる。 将棋で言えば、指導のためにわざと悪手を指すようなものだ。 ただしその悪手は、相手が正しい対応に気付いた場合にのみ悪手になって、そうではないと厳しい手だ。

「しっぽを引っ張ることは、どの戒律に反するか?」

沈思黙考。 《それ》に気付いた少年は、顔を上げて、真っすぐに師を見る。

「先生、長い間お世話になりました」

「答えなければ、この猫を斬る!」

「お元気で」

少年は振り返らずに去っていく。

チラ裏

2019-03-28 南泉 日なたで(現に太陽を浴びながら)昼寝してる猫に「太陽を信じなさい。太陽は存在するのです!」と説教するのは、ばかばかしい。猫自身が禅について一言で語るなら「昼寝の邪魔」。

物理マニアや禅マニアは目を輝かして議論に興じるが、思考実験に使われる猫からすれば、しっぽが疑問符。

「目を輝かして・目を輝かせて」は似たような意味で、別にどちらを使っても本質とは関係ないが、テキストでは、どちらかを選ぶ必要がある。「沸かす・沸かせる」「甘やかす・甘えさせる」のような語形と平行的。


猫のしっぽを思い切り引っ張ることは十戒のどれに違反するか? > 更新履歴

  1. 2014年11月23日: 初版(v1)公開。
  2. 2017年11月26日: v2: 誤字修正。「例え安息日でも」→「たとえ安息日でも」
  3. 2019年04月24日: v3: チラ裏を追加。

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空は青くて真白くて

2014年11月23日
記事ID e41123a

生きているときに与えないで、いつ与えるのか。

わたしの心は躍り上がる(ワーズワース)

わたしの心は躍り上がる。
 空に虹を見るときは。
幼いときに、そうだった。
おとなになった今もそう。
そして老いても、そうありたい。
 そうでなければ、生きたくない!

おとなは生まれる、子どもから。
綴じてください、昨日と今日を。
最後まで。最初の純真で。

★ My Heart Leaps Up(ワーズワース)。 2014年7月に、『「マイナス×マイナス=プラス」は証明できるか?』の結びに含めようとして訳したもの。 結局、含めなかった。

「最初の純真」は、原文では「生来の信心・敬虔さ」(natural piety)。 「子どもが生まれつき持つ、この世の神秘(例えば虹)に驚嘆する純真さ」のことだろう。 ワーズワースを批判する人は「信心は生まれつきのものではなく、学ぶ必要がある」と主張する。 そうかもしれないが、それは西方の神学が不自然である証拠かもしれない。

空は青くて白くて(フィンランド民謡)

空は青くて白くて、
星でいっぱいだ。
そんなふうに、わたしの若い心は
 いっぱいだ。いろんな想いで。

わたしは誰にも打ち明けない、
この心の悲しみを。
暗い森も、輝く空も
 知らないんだ。わたしの憂いを。

★ Taivas on sininen(フィンランド民謡)。 ワーズワースから「空と心」つながりで。

「そんなふうに」という一言で、満天の星と内なる宇宙を結び付けるところが美しい。

次のバージョンはメロディーに合わせたもの。

空は青くて真白くて(歌用バージョン)

空は青くて真白くて、
あまたの星に満つ。
わが若き胸も
あまたの想いに満つ。

誰にか告げんや、この憂い、
内なる悲しみを。
暗き森に告げず。
輝く空に告げず。

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少年と雲 (シリア語の詩)

2017年12月24日
記事ID e71224

少年

雲さん、どこから来たんだい?
背中に何をしょってるの?

そんなに顔を曇らせて
空から何を見ているの?

坊や、あたしゃ海からね…
大きな宝、運ぶのさ。

小さなしずく、水の粒。
地面に命、与えるの。

泉はあふれ、この粒で…
たねは目覚める、この粒で…

命は続く、この粒で…
あたしが行かにゃ地は滅ぶ。

少年

すごい、雲さん! 頑張って
立派な仕事続けてね。

善いことすれば誰だって
報われるものなのだから。

この詩について

第一印象としては、少年の答えがあまりに無邪気で、浅薄とさえ感じられる。少年は、雲を「定期便・輸送トラック」のようなものだと思っている。でも、水滴は雲の体。「地に命を与える」のは、片道切符の旅だろう。「一粒の麦が落ちて地面で死ななければ、彼女は独りのままだ。でも死ねば多くの実を結ぶ」というヨハネ12:24が下敷きになっているのかもしれない。

ヨハネの句は、こう続く。「自分の命を愛する者は滅ぶが、自分の命をこの世で憎む者は、それを保って永遠の命に至る」。ヨハネにありがちな「中二病」的脚色だろうか。「一粒の麦」の含意は、直接的には生態系における世代交代、大きく言えば生物・無生物を超えた物質やエネルギーの循環。リソースの循環・共有が重要なのは、リソースが有限で貴重だから。「自分のリソースを憎む」というのでは本末転倒だろう。

雲は「水滴の集まり」という、つかの間の存在。だからといって、自分の消滅を積極的に望んでいない。「雲は暗い顔をしている」という少年の観察に、ポエジーがある。生を愛しつつ、命の循環にバトンを託す。雲は「死ぬために生まれた」のではない。分子が集まって形を作ったとき、その内側に意識と呼ばれる幻覚がともるとしても、実際には何も生まれないし、何も死なない。けれど、それが優しい気持ちを生むのなら、幻もまた真実かもしれない。

少年のあどけなさが、雲の象徴に深みを与えている。

出典はカラバシ(Karabash)著 ܗܪ̈ܓܐ ܕܩܪܝܢܐ 第4巻・24課画像)。

数年前、シリア語を学び始めたとき、たまたまカラバシの教科書に出会った。実際のシリア語話者が自分たちの子どもに知識を伝えようとする教材なので、学者の書いた教科書とは一味違う。彼らにとって「古典シリア語=教会の言葉」なので多少の宗教色はあるけれど、そればかりではなく、日常的な話題が多い。ときどきポエムもある。「少年と雲」を読んだのは、半年前(2017年6月)。それまでの4巻、合計ざっと100課のカラバシ・レッスンの中でも、特に印象的だった。シリア語はアラム語の1方言で、アラビア語の一種ではなく、現在のアラビア語圏のシリアとは、あまり関係ない。

詩の原文は、1行=7音節×2という形式。訳文では、原文の7音節の区切り(半行)を1行ずつにした。カラバシの西方言では ܐܝܘ を「エーゥ」や「エゥ」ではなく「イーユー」のように2音節で読むらしい(そう考えないと音節の数が合わない)。

逐語訳

少年

雲よ、貴女あなたはどこから来たか。そして貴女の背中の上に、貴女は何を背負っているか。

そしてそのような暗い顔で、何のために、この空中でうろうろして(見回して?)いるのか。

私の息子よ。私は海から前進している。そして私は大きな富を運んでいる。

これらの小さな水滴で、私は地に命を与える。

私によって泉の水はあふれ、私によって(一粒の)種は渇きを癒やし発芽する。

私に、生き物たちの命は依存し、私がいなければ地は滅びゆく。

少年

見事です、慈善の母よ。それらの有用性の中に、とどまってください。

だって誰でも善を行う者は、良い報いを受けるのだから。

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黙示録の奇妙な誤訳: 楽しいシリア語の世界

2018年 4月15日
記事ID e80415

「南の子午線を飛ぶハゲタカ」が、なぜか「尾が血まみれのハゲタカ」に…。誤訳の裏にドラマあり。

JPEG 8 KiB
Credit: New Testament Virtual Manuscript Room - INTF [1]

画像は、ドイツの New Testament Virtual Manuscript Room で見つけた、おちゃめなシリア語写本。「ハゲタカが大声で言う」という記述において(このバージョンでは尾から血を流しながら…)、ハゲタカの声を表す文字の「尾」が長く引かれ、らせん階段を横から見たような装飾が施されている。「ウォォォ~~~ィィィ」という感じなのだろうか。それとも「尾から血が出てるぞ~~~」というクリエイティブな「いたずら書き」なのだろうか(笑)。

天使の血?

黙示録のストーリーは、「7個の封印が解かれ、7個のラッパが鳴り、7個の災いが起きて世界は終わる」というもの。漫画にでもありそうな設定だが、信仰心のあつい人は、これをいろいろと解釈するのだろう。それ以外の人は「ばかばかしい」と感じるかもしれない。

語り手の「僕」は幻を見ている。幻の中で天使がラッパを吹くと、そのたびに天変地異が起きる。既に第1~第4のラッパが吹き鳴らされ、世界のあちこちが破壊された。このタイミングでハゲタカ登場。空を飛びながら「地に住む者たちは哀れだ。あと3回ラッパが鳴ると…」と、思わせぶりに不吉なことを言う。

これが第8章の末尾。連載なら、ここで「続く」となる。

黙示録8:13 原文の大意
僕は見た。1羽のハゲタカが、南の子午線上を飛んでいるのを。ハゲタカが大声で言うのが聞こえた。
「地に住む者たちは哀れ! 3人の天使たちが吹き鳴らそうとしている、残りのラッパの音があるから!」
黙示録8:13 シリア語版Bの大意
僕は見た。血まみれの尾を持つ1羽のハゲタカが、中間を飛んでいるのを。ハゲタカが大声で言うのが聞こえた。
「地に住む者たちは哀れ! 3人の天使たちが吹き鳴らそうとしている、残りのラッパの音があるから!」

シリア語版Bでは「南の子午線上を」が「中間を」に変わり、なぜか「血まみれの尾を持つ」という句が挿入されている。ハゲタカの尾に、一体何があったのだろう?

問題は、そこだけではない。

黙示録14:6冒頭 原文の大意
そして僕は、他の天使が南の子午線上を飛んでいるのを見た。告げ知らせるべき永遠の福音を携えて。
黙示録14:6冒頭 シリア語版Bの大意
そして僕は、他の天使が中間を飛んでいるのを見た。血まみれで。告げ知らせるべき永遠の福音を携えて。

福音を告げる天使も「血まみれ」…。この翻訳、何かおかしいぞ?

翻訳元の原文は?

黙示録の原文は、ギリシャ語の一種(コイネー)で書かれている。

8:12 Καὶ ὁ τέταρτος ἄγγελος ἐσάλπισε,
そして第4の天使が(ラッパを)吹き鳴らした。
καὶ ἐπλήγη τὸ τρίτον τοῦ ἡλίου καὶ τὸ τρίτον τῆς σελήνης καὶ τὸ τρίτον τῶν ἀστέρων,
すると打たれた。太陽の3分の1と、月の3分の1と、星々の3分の1が。
ἵνα σκοτισθῇ τὸ τρίτον αὐτῶν,
…それらの3分の1が暗くなるように(打たれた)。
καὶ τὸ τρίτον αὐτῆς μὴ φανῇ ἡ ἡμέρα, καὶ ἡ νὺξ ὁμοίως.
…そして昼の3分の1が光を放たないように。そして夜も同様に。
8:13 Καὶ εἶδον, καὶ ἤκουσα ἑνὸς ἀετοῦ πετομένου ἐν μεσουρανήματι, λέγοντος φωνῇ μεγάλῃ·
そして僕は見た、そして聞いた。ハゲタカの1羽を。…南の子午線において飛んでいる(ハゲタカの)。大きな声で言っている(ハゲタカの)。
Οὐαὶ, οὐαὶ, οὐαὶ τοὺς κατοικοῦντας ‹τοῖς κατοικοῦσιν› ἐπὶ τῆς γῆς
「ウーァィ、ウーァィ、ウーァィ! 地の上に住み着いている者たちを(哀れむ)。 ‹地の上に住み着いている者たちに(哀れみを)。›
ἐκ τῶν λοιπῶν φωνῶν τῆς σάλπιγγος
その戦のラッパ(単数形)の、それら残りの音ども(が鳴るのだ)から。
τῶν τριῶν ἀγγέλων τῶν μελλόντων σαλπίζειν.
…それら3人の天使たちの、それらまさに吹き鳴らそうとする者たちの(ラッパの)」

出典: ΜΥΡΙΟΒΙΒΛΟΣ ‹一部 Byzantine Textform 2005 による別の読み方を付記›

どうやら天球の一部が破壊され、太陽・月などが、空の3分の1の範囲では光らなくなってしまったらしい。黙示録の著者の考えでは空は「薄型液晶ディスプレー」のようなもので、それが「はがれてしまう」と想定されている(6:14)。

ハゲタカは、一部壊れてしまった空の「ディスプレー」上をからかうように飛びながら、嫌なことを言う。「あぁ、あぁ、あぁ、哀れな人間どもめ。これはまだ序の口で、恐ろしいのはこれからだ」と。

…ちなみに、この後何が起きるのかというと、地の底からイナゴ的な大群が出てきたり、封印されていた巨神兵のようなものが起動されたり、あたかも「薬物依存症の人が見る夢」のような奇々怪々な事態が発生する。

μεσουράνημα [ρᾰ], ατος, τό は、動詞 μεσουρανέω(南中する)から派生した名詞。明らかに日常語ではなく、天文用語だろう。μέσος は「メソポタミア」「メソン」の「メソ」で「中間」という意味。οὐρανός はウラノス、「空」。…「中間の空」とは、どこだろうか。用語の本来の意味としては「東の地平線から昇った天体が西の地平線に沈む道筋の中間地点」つまり「子午線=南中地点=天体の高度が最大になる地点」を指すようだ。

JPEG 14 KiB ἀετός [ᾱ] は「タカ、ワシ」の類いを表す。新約聖書の文脈では「死体のある場所に集まる鳥」(マタイ24:28)で、「腐敗(罪)のある場所には、結局は速やかな天罰が下る」という象徴的な意味を持つらしい。いずれにしても、ハゲタカが頭上を旋回するのは、うれしくない!

画像は、シリアにもいる代表的な種シロエリハゲワシ。実際には物語の中の鳥なので、種や属を特定することはできない。ここでは曖昧に「ハゲタカ」と訳しておいた。

ギリシャ語版黙示録の一部のバージョンでは、空を飛んでいるのは「ハゲタカ」ではなく「天使」とされている。KJV(欽定きんてい訳聖書)はこの解釈に従い、上記を天使のせりふだとしている。

漫画『エロイカより愛をこめて』の第13話「第七の封印」で、登場人物のドイツ人少佐は上記8:13を引用して「わしが空を 飛びながら そうわめくんだ」と説明する。実はドイツのルター聖書でも、もともと主語は「タカ・ワシ」ではなく「天使」だったらしいが、少なくとも1984年版では「タカ・ワシ」に改訂されているようだ。

黙示録4:7によると、天界には4種類の動物がいて、動物の一つはハゲタカに似ているという。このイメージは黙示録のオリジナルではなく、旧約聖書のダニエル書・第7章にも似た雰囲気の描写がある。

σάλπιγξ, σάλπιγγος, ἡ は「(戦の)ラッパ」。「ラッパの持ち主=3人の天使」と「ラッパの音」が両方複数形なのに「ラッパ」が単数形という点は、解釈しにくい。「複数のラッパの複数の音」と考えず、「ラッパ音」(という一塊の名詞句的なもの)を想定して「複数のラッパ音」と考えたのかもしれない。形容詞句がだらだら連続して、あまりピリッとした文でもない…。聖書というと荘重なイメージもあるが、新約のギリシャ語コイネーには、少々ぎこちない表現もあるようだ。アラム語を母語とするユダヤ系の人々が、国際布教のため、一生懸命ギリシャ語で書いたのかもしれない。

シリア語版B

シリア語アラム語の1方言)は、イエスやその弟子たちが実際に話した言語(アラム語の別の1方言)と同系で、初期東方キリスト教徒の共通語のようなものだった(西方ではギリシャ語が共通語だった)。例えば、2世紀の福音書「ディアテッサロン」のオリジナルは、ギリシャ語ではなくシリア語だったのではないか、と考えられている。黙示録も含めて、通常の新約聖書の諸文書のオリジナルはギリシャ語で、後からシリア語へ「逆翻訳」された。旧約の大部分については、オリジナルはヘブライ語で、そこから派生するギリシャ語訳・ユダヤ系のアラム語訳・シリア語訳が独立して存在していた(旧約の一部は、最初からアラム語で書かれている)。

シリア語版の黙示録には、2種類ある。この2種類を区別して、ここではシリア語版A・シリア語版Bと呼ぶことにする。「ハゲタカが血の尾を持つ」「福音を告げる天使が血まみれ」という描写は、シリア語版Bにのみ登場する。

ܘܰܚܙܶܝܬ ܘܫܶܡܥܶܬ ܠܢܶܫܪܐ ܚܰܕ ܕܦܳܪܰܚ ܒܰܡܨܰܥܬ̥ܐ ܕܕܘܢܒܐ ܕܰܕܡܐ ܐܝܬ ܠܶܗ.
そして僕は見て、聞きました。1羽のハゲタカを。←(彼は)飛んでいる、中間において。←彼には血の尾がある。

この奇妙な誤訳の原因は、単語の切り間違い(異分析)だった。ἐν μεσουρανήματιἐν μεσ(ου)- が「中間において」と解釈され、末尾の ήματιαἵματι(血によって)と解釈され、中間の ουρανοὐρά, ἡ(尾)の対格と解釈された。初期のギリシャ語では、単語と単語の間にスペースを入れなかったので、こうした勘違いが起きやすかった。「μεσουρανμέσῳ οὐράν の母音が融合したもの」と考えたことになる。

これが日常的な物語だったら「血の尾のわけない」と文脈から判断できる。でも黙示録は、あちこちに血の描写があり、動物に角が10本あったり、イナゴにサソリの尾があったりする世界なので、ハゲタカに「血まみれの尾」があっても、内容的に不自然ではない。

οὐράν が「尾を」なら「持っている」のような動詞が必要なのでは…といった疑問はあるけれど、古代の翻訳者の立場では、ここでいろいろな可能性が考えられる。

ギリシャの詩では「アキレス」と言えば「足が速い」、「アポロ」と言えば「銀の弓持つ」、「アプロディーテー」と言えば「麗しい玉座の」…のように、さまざまな枕ことば(前方に置かれるとは限らないが)が使われる。コイネーは文芸的な古典ギリシャ語ではなく、ましてや叙事詩ではないけれど、幻想的な「ハゲタカ」に「血の尾を持つ」という形容が付いたとしても、原理的にはおかしくない。そういう目で見ると、想定される枕詞 *οὐρανήματι は「長長・長短短」という、それっぽいリズムを持っている。

ܟܰܕ ܐܳܡܰܪ ܒܩܳܠܐ ܪܰܒܐ. ܘܳܝ ܘܳܝ ܠܗܳܢܘܿܢ ܕܥܳܡܪܝܢ ܥܰܠ ܐܰܪܥܐ
…彼が大きな声で言っているとき(僕は聞きました)。「ワーィ、ワーィ! これら地の上に住む者たちに(哀れみを)。
ܡܶܢ ܩܳܠܐ ܕܫܰܪܟܐ ܕܫܝܦܘܿܪ̈ܐ
ラッパどもの残りの音(が鳴る)から。
ܕܗܳܢܘܿܢ ܬܠܳܬܐ ܡܰܠܰܐܟ̈ܐ ܕܰܥܬ̥ܝܕܝܢ ܠܰܡܝܰܒܳܒܘ.
これらの3人の天使たちの。吹き鳴らすべく準備した者たちの(ラッパの音が)」

τοὺς κατοικοῦνταςܠܗܳܢܘܿܢ ܕܥܳܡܪܝܢ と訳され、τῶν τριῶνܕܗܳܢܘܿܢ ܬܠܳܬܐ と訳されている。シリア語には冠詞はないのに、ギリシャ語の冠詞がいちいち(指示代名詞として)逐語訳されている。この過剰なまでの直訳は、ハルケル(Ḥarqel)版の特徴。シリア語版Bの正体は、7世紀始めのハルケル版だと考えられている。

「過剰なまでの逐語訳」なのに、ハゲタカの叫びが2回に減らされているのは不思議。素朴に考えると、3回叫ぶのは、ラッパがあと3回鳴るのと対応しているのだが…。シリア語版B系でも、ポリグロット聖書[2]、モースル聖書[3]などではハゲタカは3回叫ぶが、どっちが本来なのだろう。同様に、8:7は現存するギリシャ語版では「血の交じったひょう」だが、シリア語版A・シリア語版Bともに「水の交じった雹」になっている。

シリア語版Bの14:6の初めの部分は、次の通り。

ܘܰܚܙܹܝܬ ܐ̱ܚܪܹܢܐ ܡܰܠܰܐܟ̥ܐ ܟܰܕ ܦܳܪܰܚ ܒܰܫܡܰܝܐ
そして僕は見ました。別の天使を。…彼が空において飛んでいるとき。
ܕܒܰܕܡܐ ܐܝܬ ܠܹܗ ܐܹܘܰܢܓܶܠܝܘܿܢ ܕܰܠܥܳܠܰܡ
←血の中で(または「血によって」)、彼には永遠のエワンゲリオンがある(永遠の福音を携えている)。

こちらでは、ἐν μεσουρανήματιμεσο- が事実上無視され、ἐν οὐρανῷ αἵματι と解釈されている。

普通だったら「福音を告げる天使が血まみれのわけない=何かの間違い」と判断できるけど、そこは黙示録。19:13では、イエス本人のような人物が「血の染みた服」を着ているし、天使の間では戦闘が起き、天界から投げ落とされる者もいる…。そんな状況なので、天使が負傷していても、おかしくない。もっともシリア語版B系でも、ポリグロット聖書[4]、ウルミア聖書[5]、モースル聖書[6]などでは、天使が「血まみれ」でないように ܒܰܕܡܐ(血の中で)が ܟܰܕ (ܡܐ)(~のときに)に変更されている。

シリア語版A

何世紀もの間、シリア語の黙示録として、シリア語版Bだけが知られていた。19世紀後半に違う種類の写本(Crawford Codex)の存在が知られるようになり、その内容は、19世紀末に初めて書物として出版された。英国のBFBSが1905~1920年に出版したシリア語新約[7]では、このシリア語版Aが使われている。

画像は、その謎めいた Crawford Codex の実物の写真(ページの一部)。正体はよく分かっていないが、ピロクセノス版(500年ごろ)に基づく写本ではないかと考えられている。便宜上、シリア語版Aと呼ぶことにする。

JPEG 22 KiB
Courtesy of the University of Manchester; CC BY-NC-SA 4.0 [8]

問題の8:13は次の通り。

ܘܫܶܡܥܹܬ ܠܢܶܫܪܐ ܚܰܕ ܕܦܳܪܰܚ ܒܰܫܡܰܝܐ ܪܳܐܡܰܪ.
そして僕は聞きました。1羽のハゲタカを。←(彼は)空において飛んでいる。←(彼は)言っている。
ܘܳܝ ܘܳܝ ܘܳܝ ܠܥܳܡܘܿܪ̈ܝܗ̇ ܕܰܐܪܥܐ
「ワーィ、ワーィ、ワーィ。地の住民に(哀れみを)。
ܡܶܢ ܩܳܠܐ ܕܫܝܦܘܿܪ̈ܐ ܕܰܬܠܳܬܐ ܡܰܠܰܐܟ̥ܝ̈ܢ ܕܰܥܬ̥ܝܕܝܢ ܠܡܰܙܥܳܩܘ
ラッパどもの音(が鳴るのだ)から。3人の天使たちの。鳴らすべく準備をした者たちの」

抜けている語句が多い。「見て聞いた」が「聞いた」になっているのは いいとして、「大きな声で」、「残りの」ラッパの音、といったフレーズも省略されている。ἐν μεσουρανήματι の解釈に迷った揚げ句、それが気になって、前後もうまく訳せなかった のかもしれない。

もし「シリア語版Bの奇妙な誤訳を改訂する」という意図があったなら、一つも単語を抜かさず、忠実性重視の翻訳をしただろう。こんなに語句が抜けているところを見ると、そういう意図はなく、むしろシリア語版Aの方がシリア語版Bより古いのだろう。

14:6の初めの部分は、こうなっている。

ܘܰܚܙܹܝܬ ܐ̱ܚܪܹܢܐ ܡܰܠܰܐܟ̥ܐ ܕܦܳܪܰܚ ܡܰܨܥܰܬ ܫܡܰܝܐ
そして僕は見ました。別の天使を。←(彼は)飛んでいる、空の中間において。
ܘܐܝܬ ܠܹܗ ܥܠܵܘܗܝ ܣܒܰܪܬ̥ܐ ܕܰܠܥܳܠܰܡ
←そして彼には、彼の上に、永遠の福音がある。

問題の ἐν μεσουρανήματι が「空の中間において」と正確に逐語訳されている。この表現は19:17でも使われている。今思えば、この同じ訳語を8:13にもコピペすれば良かったのだが、もちろん当時は、全文検索、コピペなどという便利なことはできなかった。

シリア語版Aの翻訳者は、ギリシャ語の冠詞までいちいち翻訳せず、比較的自然な文体を使っている。この点は、7世紀のハルケル(意図的な直訳)より、400年ごろのペシタ(こなれた翻訳)に近い。

「福音」を表すシリア語本来の表現は ܣܒܰܪܬ̥ܐ 。ペシタ福音書では、通常この表現が使われている。ܐܹܘܰܢܓܶܠܝܘܿܢ は同じ意味の外来語(ギリシャ語からの借用)。シリア語版Bでは、こちらが使われている。上記シリア語版Aでは前者が使われているので、やはりペシタに近い感じがする。

他方、ペシタ福音書と同時代ではない証拠として、シリア語版Aでは、単数形の「神の霊」が必ず男性扱いされている。シリアの神学で「聖霊」が男性に変わるのは5世紀ごろからで、ペシタ福音書では、シリア語本来の文法に従って、原則として「聖霊」は女性。ちなみに、ヘブライ語(旧約聖書)やユダヤ系のアラム語(タルグム)でも、神の霊は女性。これは深い意味を持つ「思想」ではなく、もともとは単なる「文法上の規則」(西欧語で言えば、冠詞の使い分けのような問題)だった。

誤訳の裏にドラマあり

この記事で紹介した奇妙な誤訳の存在は、研究者の間では古くから知られていた[9]。筆者は趣味でシリア語を勉強していて、1年くらい前、たまたまこれに気付いた。

誤訳の発端は、黙示録の著者が小難しい天文用語 μεσουράνημα(南の子午線) を使ったこと。天球が破壊される描写の直後なので、子午線や黄道が話題になること自体は、不自然ではない。「ハゲタカが南の空高くを飛んでいる」というだけの話なので、実用上の観点では、わざわざ天文用語を使う必要はなかったとも言えるが、非日常の用語を使うことで、神秘的なムードを表現しようとしたのかもしれない。

シリア語版Aの翻訳者(マンビジのピロクセノスとされる)は、この天文用語を完全には理解できなかった。単に「空」と訳したり、「中間の空」と直訳したりしている。「中間の空」は、もしかするとシリア語の天文学用語として正しいのかもしれないが…。

シリア語版Bの翻訳者(ハルケルのトーマスとされる)は完璧主義者で、全部の単語を厳密に訳そうとした。しかし特殊な科学用語までは見抜けず、考えに考えた末、「メソ・ウーラネーマティ」(南中地点)は「メソ・ウーラン・ハイマティ」(中間・尾を・血で)だろう、という答え(珍妙だが想像力に富む)にたどり着いた。トーマスの名誉のために言えば、血なまぐさい黙示録だからこそあり得た誤解で、そうでなければ「血まみれの尾」などと考えることは なかっただろう。

シリアのキリスト教の伝統(ペシタのカノン)では、黙示録は正典ではない。形式的なことを言えば、シリア語版Bの不具合は「正典の公式な翻訳」の問題ではなく、「外典の非公式な試訳」の問題だった。黙示録は、ペシタが完成した5世紀初めに間に合うように東方に伝わっていなかったか、または、伝わっていても時期が比較的新しく、まだ「聖書の一部」としての地位が確立していなかったのだろう。順当に進めば、やがてはシリア語世界もヨーロッパの標準に合わせただろうが(正典の範囲について)、現実の歴史では、シリア語版Bの時代以降、中東でアラビア語のイスラム文化が花開き、シリア語の文化は衰えてしまった。

黙示録の著者は、もしかすると、天文用語の正確な意味を理解せず、単に「空高く」という意味の詩的表現として μεσουράνημα を使ったのかもしれない。しかし事情はともあれ「南中地点」という言葉を知っていたのだから、天文に興味があったのだろう。もしかすると、博識な読書家・勉強家だったのかもしれない。

彼らの宗派はユダヤ人の社会では受け入れられず、それどころか拒絶・弾圧されていた。ユダヤの伝統・体制から見れば、彼らは異分子であり、少数派であり、「偽預言者に従うカルト組織」だった。社会に溶け込めず、浮いていたからこそ、進んで新興宗教に参加できたのかもしれない。一方、彼らを排斥したユダヤ人の社会の側も、決して安定したものではなく、神殿を破壊され、人々は各国に散らばって住み、流動的な存在だった。疎外され世の中に幻滅した人、群れの滅びを予感する人が、学問にせめてもの心の慰めを見いだすこと、あるいはSFやファンタジーに夢中になることは、現代でもよくあること。μεσουράνημα という天文用語が使われている理由も、もしかすると、そういう背景において理解可能なのかもしれない。

***

歴史の皮肉として、ユダヤ世界で受け入れられないこのマイノリティーグループは、やがてユダヤ教を上回る大宗教となり、時には逆にユダヤ人を迫害し、別の種類のマイノリティーグループを攻撃する枠組みともなる。時には天文学の理論を異端扱いしたり、科学の教育にまで介入したりしながら…。黙示録については「われわれの神を信じないと、恐ろしい滅びが待っている」と人を不安にさせ、入信させようとする「権威主義的・高圧的」な洗脳文書とも解釈できる。でも起源的には、むしろ「弱い立場」の人の不安定な気持ちを反映している作品なのかもしれない。

黙示録の奇妙な誤訳: 楽しいシリア語の世界 > 作成メモ・更新履歴

  1. 2018年3月23日: 作成開始。
  2. 2018年4月15日: 初版公開。
  3. 2018年4月29日: 訳語・表現の微調整。 ἐνܒ については「~において」に統一。ܘܝ ܠ については「~を哀れむ」から「~に哀れみを」に変えた。
  4. 2018年5月6日: 「ハゲタカが頭上を旋回するのは、うれしくない」という文(説明?)を追加。当たり前だけど…。

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