6 : 16 オープンソース字幕はビジネスになるか

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ファンサブは死にゆくのか?

2002年10月12日
記事ID d21012

この記事は「ビジネスモデルとしてのファンサブ」(2004年2月)と同じページに収録されているが、それより2年前の2002年に書かれた。ふたつの記事に多少の矛盾があるのは、それぞれの時期の状況を反映しているためだ。 例えば、この記事の時点では、BitTorrent はなかった。

ファンサブとは

アニメの国、日本。……今や世界のいろいろな地域にアニメファンがいるが、すべてのアニメがその人々の望む言語で手に入るわけじゃない。すべての映画に日本語字幕版があるわけじゃないのとおんなじだ。アニメは海外アニオタにとっては「神の言語」ともいうべき日本語がオリジナルなのだ。(この記事をすらすら読めるみなさんは、神だ……)

まだ吹き替えも字幕版もない新作アニメ。日本国内ですらDVDどころかVHSさえ完結せず、永遠に字幕版など出そうにない旧作名作。あるいは第一シーズンだけ海外でも発売されて根強いファンがありながら第二シーズンは日本国内のみで放置されているシリーズ……。もっと字幕を……と望むコアでディープなマニアは決してひとりやふたりじゃないのだ、が、商業ベースで翻訳版が出せるほどにはメジャーでもないらしい。

アニオタの強引さは日本国内にとどまらない。字幕版がなければ作ればいい。吹き替えの声優だせぇ、翻訳も間違いだらけじゃないか、変身シーンをカットするなボケ! こうなったら自分で作るぜ。……というマニアックな外国人たちのサークル活動が fan による subtitling 通称 fansub だ。 (ちなみに漫画のファンサブはスキャンレート / スキャンレーション scanlate / scanlation という。)

日本のアニメに対して、英語のほか韓国語、フランス語、スペイン語などのファンサブ・サークルが100単位で存在する。ファンサブは(日本の「同人」のように)けっこうポピュラーな活動なのだ。ただしフランス語の場合、日本語から直接翻訳しているサークルは2、3で、英語版から二重の翻訳をしていることが多い。英語版でも韓国語版から二重の翻訳をしているところもある。

品質はさまざま

日本語を直接100%理解でき、新作アニメのなかの古典アニメからのパロディーやら、最近の日本の時事ねたを知らないと意味が分からないネタまでフォローできるような翻訳者というのは、非常に少ない。相当な日本語力を持っている翻訳者でもネイティブから見たらひとめで誤訳と分かるようなことを、けっこうやらかしている。実例をあげよう。

ファンサブには妙な訳も…

フルメタルパニック最終回より。かなめが釣りをしていると大きなアタリがあって「で、でかい! 鯛か?!」と叫ぶ場面だが、翻訳者は「これはまさか Taika でしょうか?」と訳している。タイカという名前の魚だと勘違いしている。そんな魚はいないぞ。だれにでも間違いはあることでそれはまぁいいのだが、不可解なのは、妙な訳注を上につけて「タイカとは日本で一般的な魚の一種であり、文字通りの意味は“大魚”である」などと断言しているところだ。どうやらだれか日本語圏の人に尋ねて「鯛か、というのは、まあ大物というような意味ですよ」という答を得たものの、少し何か勘違いがあったようだ。これでも名の知れたサークルが作ったものだし、これがとくにひどいというわけでなく、まぁ一例だ。比較のためにまともなバージョンをあげておく。

正しい訳: Taika でなく Tai という魚であることは日本語圏では常識

「なぜ釣り素人のかなめが、いきなり専門的な魚の名前を推定するのか」という疑問がわくだろうから「日本ではタイというのは大きな高級魚の代名詞のようなもの」というノートをつけてある。このように、日本語ネイティブがチェックするか自分で訳せば、妙な誤解や推測による変てこな訳はほとんど無くなる。もちろん、日本語ネイティブということは英語はネイティブでないわけだから訳文(英語)のほうは完璧でないかもしれないが、意味さえちゃんと訳してあれば表現が多少変でも英語圏の編集者がフォローしてくれる。あなただって、外国人が書いた多少たどたどしい日本語をみて「意味はよく分かりますが、ここはこういうふうに言ったほうが自然ですよ」とかわりと簡単に校正できるだろうし、あいまいな点があれば「これはどういう意味ですか」「ああそういう意味ですか、それだったらふつうこーいうふうに言います」てな感じで自然な日本語になおせると思う。それと同じことだ。

では、どうして変な字幕が存在するのか。答は簡単。日本語圏ネイティブやそれに近い立場で、ファンサブ・サークルに参加してる絶対人数が少ないからだ。グループによっては翻訳原稿をろくに校正せず、それどころかそもそもまともな翻訳者がいないのに、てきとーに訳してどんどんリリースを進めるところもある。というか、そういうほうがふつうなのだ。最新作のアニメを、どのサークルがいちばん最初に訳すか、というような競争(スピードサブ)が日常おこなわれてる。速ければ日本国内で初回放送されて48時間以内に英語字幕版がリリースされる。なかには速く訳してしかも訳もすばらしいという翻訳者もいるが、それは例外というべきで、単純に考えても、そんなスピードレースのような翻訳では、一般的には最高品質は望めない。ときどき、このサークルはアニメへの敬意と愛情をもって熱心なファンとして訳しているのだろうか、それとも、ファンサブが自己目的化して他のグループとの競争に勝って多くのダウンローダーを集めて、つかのまの虚栄を楽しみたいのだろうか、と疑わしく感じることもある。

Mayday Anime の評論 Death of Fansubbing は ―― すべてにおいて同意できるわけでもないが ―― ファンサブのかかえる問題を的確に分析している。「これは私見だが」とエッセイは言う。「アニメのファンサブは死にゆくものだと思う。ここで死ぬ、というのは、もうアメリカ国内では意味がなくなる、ということだ。活動自体は続くとしても、以前のような意義は持たないだろうし、以前のような動機にもとづくものでもなくなるだろう。第一の理由は、今後、新作アニメの多くがアメリカ国内でも販売される見通しだからである。したがって有志による字幕は必要なくなる。またここ数年、ファンサブもデジタルで以前より簡単に行えるようになり、昔のような根性の入ったファンサバーは減って厨房なサークルが増えたこともファンサブの死である。いまや Samurai Deeper Kyo をやっているグループは12もあり、ばかげたスピード競争をしているが、品質はでたらめだ。あるグループなど翻訳者ゼロで12歳の子どもがスクリプトを作っている。 Tokyo Underground のある場面では天井が落ちてきて主人公が『たいへんだ、ここから逃げなくては』というようなことを言う場面で、かれらは『オー、ノー、天井が落ちてきた』と訳し、訳がてきとーであることをごまかすために無意味に字幕を点滅させている。」天井が落ちてきたのは、べつに字幕にしなくても見ればだれでも分かることであって、たしかにこれはナンセンスな話だ。

英語圏の翻訳者は、英語として自然な訳を書くのであたかも優秀なスクリプトを作成しているように見られがちだが、Taikaの例からも分かるように「どうせオレ以外には日本語分かるやつがいないし」という感じで、完全には理解できない部分を勝手な想像でおぎなって話を作ってしまう訳者も少なくない。また実際、その人の周囲には、その人以上に日本語を分かる人がいないので(いれば、それは違うと注意するに決まっている)、その誤訳は誰にも分からず、結局、そのグループは素晴らしいリリースをしたという評価になってしまう。

日本語圏のアニメファンなら、例えば主人公が「えぐりこむようにして、練るべし、練るべし」ととつぜん叫んだり、「ミネフジコ系」とか「営業スマイル養成ギプス」とか「エネルギー充填120%」とか「貴様のコンピュータは化け物か」と言った場合に、まぁ、たぶん、モトネタを理解できるが、大学で日本語を勉強しただけの英語圏の訳者には、これらの音だけ聞いてセリフの背景まで理解しろというほうが不可能に近いと思われる。

上の評論で次の部分は同意できる。Even if fansubs are no longer necessary to bring attention to newer shows, they could still have a role in bringing attention to older less known but good shows. For example, I would like to see fansubs of "Mikan Enikki" or "Tsuyoshi Shikkari Shinasai"or "watashi no ashinaga ojisan" they're all great animes, with wonderful heart warming stories, how many people here have heard of them? 日本語圏以外にも、「新作を追いかけるだけがファンでない」という当たり前の認識を持つ者がいるのは何よりだ。ここにあるように、それは極めて少数派だとしても。

ファンサブの「未来」

商品としてちゃんとした字幕版があるようなもの、これからできる可能性があるものの字幕版を作って不特定多数に公開するようなことは版権上問題があるばかりか、意味がない。 字幕版を売ってるなら買ったほうが速いし、例外もあるが、平均的には商品の方が高品質だ(ただし公式版がノーカット版でない場合は別の問題もある)。 そもそも翻訳字幕を自分で作るというのは生やさしい話ではなく、すでにちゃんとしたバージョンが存在していて千円くらいで買えるものを(北米版のアニメDVDは日本と比べてかなり安い)、苦労して訳す必要ないだろう。 数人の小さな同好会を作って、テレビから録画したVHSテープなどにうちわで字幕を自主制作して見せあって楽しむのは、個人の趣味の範囲というもので、べつに問題あるとは思わないが、どこで線を引くのかというのは厳密には難しい問題だ。ファンサブは基本的にはアニメファンとしての行為でアニメ文化の普及にこれまで貢献してきたが、インターネットと高速回線の普及であまりに「強く」なりすぎてしまって、このままいけば公式の字幕版DVDの発売を阻害する結果になり、かえってアニメ文化にとって不利益になるのでないか、と考える者も多い。その字幕が非常に上質なものならまだしも、さきほどのべたようなアホウな字幕を広めてそのせいで海外でのアニメ普及がおかしくなったり原作が誤解されるのは、本末転倒だし原作に対して失礼でもある。と言ってみたところで、外国人のアニオタがやることを止められるわけでもないが……。

このままいけば……というのは可能性の話であって、現実的にいえば、今のところ、ファンサブはいろいろあるにしても全体としては海外アニメ世界の良い刺激になってはいる。 最初に否定的な例をいろいろ挙げたが、優れたファンサブもまた多い。 日本のディープな世界で版権モノな同人誌がひそかにでまわっているからといってそれは限られた世界で有名なだけで日本国内での大勢には大きな影響ないのと同じで、現在、いちばん大きいと言われるようなファンサブのサークルでも、あんがい細々としている。かつてのシンビロひとつ考えても分かるように、字幕がつかないで勝手に流通してる量もぼうだいなので、ファンサブだけをどうこう言っても仕方ない面もある。が、個人的な感覚として、320x240 DivX3 の時代には50~100MBで共有されていて、その小さいクリップをみて「これはおもしろい。放送されたらチャンネル契約して見よう or DVD買おう」と意欲がわいた人が多かっただろうが、ここ最近、640x480とかの全画面表示で見てもきれいなサイズが(ファンサブに限らず字幕無しでも)流通していると、どうなのかと思う。ファンサバーは字幕がないアニメを補完してきたが、補完するせいで放っておけば自然と発売された字幕版が出なくなるとしたら変な話で、「このままゆけば、いずれ版権者の利権と大きな衝突が起きるだろう」という感覚がある。で、ファンサブは死ぬ運命だ、とか、それでも旧作名作の発掘という活動は残る、といった上記の議論になる。 正規北米版にカット、編集、誤訳などが多かったり、DVDのオーサリング等に問題があって画質に不満がある場合などには、さらにまた別の議論も生じる。

いっけん逆説的かもしれないが、英訳するということは日本文化を発見する行為でもある。あるアニメで、特殊な薬品を開発する実験の話がある。 所長立ち会いの公開実験に成功したとき、もうひとりの学者が「おめでとうございます」と所長に祝辞を言う。 シチュエーション的に日本語で見るぶんには不自然な点は無い。が、英訳すると、開発したのも実験に成功したのも特定の博士なのになぜ所長に「おめでとう」と言うのか不自然に見られる。そして日本の「組織的」な社会構造とか、「そういえば日本では会社として特許権をとった場合も実際に特許の発明をした個人は、うんたらかんたら」な話に発展したりもする。また、どのアニメにせよ、キャラたちが何に対して「恥ずかしい!」というか、恥という観念の違いも英訳すると浮き彫りになる。例えばアメリカ英語圏では「それは当惑であっても恥ずかしいではない」というような場合だ。アニメやマンガの世界というのは、いっけん妙に無国籍で表面的には西洋かぶれふうに見えることもあるが、細かく分析すると、やはり日本の文化の価値観がいたるところに刻印されているようだ……。

このように、ファンサブは視点をちょっとずらせばたくさんの新鮮な発見や驚きに満ちている。日本文化、日本の世界、その独自の価値観自体がこのように新鮮だから。同様に、質の高いリリースをしているサークルは少数だとしても、世界の人々が「アニメ文化」「アニメの世界」「アニメの価値観」に本当に出会うのはまだまだこれからで、結局のところ、その世界を味わう主体であるファンのちからに大きく依存することになるだろう。

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ビジネスモデルとしてのファンサブ

2004年 2月 5日
記事ID d40205

ファンサバーは「フリーの字幕」を作る。 それなりの需要もある。 現在の商業ベースでは満たし難い「すき間産業」だ。 Netscape と Mozilla のように字幕の「コード」は有志のオープンソース開発、 それを映像と合わせて商品、というビジネスがもし成り立てば、 低コスト高品質で、関係者すべてにメリットがある。

最近、あるアニメがライセンスされ、せっかく海外発売になるというのに、 ファンは独自ドメインのサイトまで立ち上げ抗議運動を起こした……DVDは買うから、だからお願いだから吹き替えでなく字幕にしてほしい、カット・編集・改作をしないでほしい、と。 その一方で、企業をあてにしないファンサブは、マルチサブへとエスカレートしつつある。

2004年2月5日 ネット時代のファンサブ考

OGM版エスカフローネなどのソフトサブやマルチオーディオで有名なファンサブチームが、 現地時間2004年2月4日、アニメ版「月姫」R2 DVD をマルチサブする実験的プロジェクトを非公式に発表した。

英語・ドイツ語・ポーランド語は既に翻訳者がおり、デンマーク語とフランス語も希望者がいるほか、スペイン語も有望のようだ。 英語以外は、基本的に英語経由の重訳になる。 SSAを使うとしており、実現すれば世界で2番目の本格的なMKVマルチサブとなるばかりか、 メジャーなグループによる人気アニメのリリースだけに、それなりの影響が予想される。 人気の高い新作が、字幕を消せる形でBTに乗ると、 思わぬ問題に発展する可能性もある。

このグループは、古くからソフトサブを実践、ウェブガイドなどでも知られており、リリースも多い。 MKV自体はこの世界では既にかなり普及しているのだが、これまでファンサブよりリッピングに用いられ、 マルチオーディオなど、理論的にはOGMでもできることが多かった。 SSAソフトサブ、ましてマルチサブを行うチームは極めて少なかった。 「掲示板で仲間をつどって気軽にマルチサブ」ということがこれから広まる可能性は大いにあるが、 今回それがうまくいきそうなのもZXのような実績のあるチームだったからだ。

2002年: OGMとマルチサブ

2年前の2002年11月3日、 英語版スクリプトを使って「世界中のファンがてんでばらばらに自分の趣味で作業することで、結果的に、10言語字幕内蔵」もできると指摘した。これは夢物語ではない。 MCF(今のMKV)についての記事で当時も触れたことだが、あの時期、 「9か国語の字幕がついた12ストリームくらいのルパン三世(OGM)を実際にリリースしたグループ」があった。

9カ国語の字幕を切り替えられるOGMの画像

ILAによるマルチサブ(2002年10月ごろ)。ソースは香港DVDのようだが、試み自体が注目された。

当時ソフトサブは賛否両論だった。 CPU負荷が高いこと、SSAハードサブに比べてあまりに表現力がないことのほか、 当時は今ほどRAWが流通しておらず、「ソフトサブではRAWを他グループに盗まれる」といった偏狭な意見も根強かった。 スクリプトをDemuxされることを嫌う「クローズドソース」なサバーも多かった。 そういった背景もあって、 このサイト(妖精現実)の2002年ごろの記事には、ソフトサブを弁護する内容が多い。 ソフトサブのほうがいいに決まっている、という考えが一般化したのは2003年後半くらいからで、 以前はハードサブ派のエンコーダから白眼視さえされかねなかった。

商業ベースとの衝突: サバーが悪いのか、システムが悪いのか

マスベースでやればあまりにコストが大きくて実現不可能なことが、 世界中のアニメファンが趣味的に作業するだけで簡単にできてしまう(実際は言うほど簡単ではないのだが)。 インターネットの新たな可能性を示しているようにも思える。しかし、在来の商業ベースとの界面においては、 誰しもナーバスにならざるを得ない。 実際、攻殻機動隊のマルチサブという話が出たこともあったが、各国でライセンスされているものは危険すぎるとすぐ却下された。 それが今回、月姫。しかも2年前と違いBTの時代。 絶対に止められないとは言うものの、単純に喜んでばかりもいられないだろう。 (攻殻機動隊は英語だけのハードサブでも BANDAI から中止要請があった。) (このプロジェクトは、実際には、現在、ヨーロッパの別のチームも加わっている。)

ファンの仕事は思い入れたっぷりでていねいだが
企業は品質だけでなくコストを考えねばならない
携帯電話の画面の文字を全部日本語からフランス語に書き換えたファンサブの画像

マニアのこだわりは、商業ベースでは不可能なほどの作業コストに相当する場合もある
英語ファンサブ版の翻訳者は「ヤペタス」が土星の衛星名だと分からなかったがフランス語版では改善された
マニアならこのくらい当たり前だが、フランスのDVD産業がここまでできるだろうか。たいして需要もない日本アニメで?

今、ファンサブは別の意味でも曲がり角に来ている。 往々にして、「ファンが勝手に作ったもの」が「プロの翻訳者」の上を行ってしまっているからだ。

特に、正規のDVDが妙な編集を受けている場合、「オリジナルでは実はこういう話なんですよ」と伝える行為が、 その作品のファンにとってはショッキングな重みを持ってしまう。 正規版の発売元に対して裏切られたような気持ちを感じてしまうこともあるだろう。 仮に翻訳に多少問題があるファンサブでさえ、そういう事実がある場合、正規版よりホンモノに見えてしまうだろう…。

いわゆる海賊版などの問題とは違う。ファンはどのみち北米版も買うので、ファンサブのせいで売り上げに影響することは総体的にはないのだが (日本で同人誌を買ったからといってファンなら本編を買わないわけがないのと同じ)、 金を払って買う商品のDVDの字幕のほうが悪いということが問題なのだ。 ベルばらのようにかなりすばらしい字幕もあれば、 北米版ビバップのように誤訳が多めのもあるし、いろいろだから一概には言えないのだが、 ファンサブとの力関係は意外なほどデリケートだ。 もしあなたが有名チームのサバーなら、 ADVやBANDAIの担当者から(やめないと訴えるぞなどという高圧的な態度でなく)フレンドリーに個人的に「中止していただきたいのですが」 とお願いされるかもしれない。「それじゃあファンが続きを見られないじゃないですか。一年二年待てというのですか」あなたは言う。 「それはそうなのですが商売ですので……」担当者は言う。そういう微妙な力関係が往々にしてある。 もちろんケースバイケースだから一概には言えないが、必ずしも高圧的・一方的にやめろと言うのではなく、 版権者とファンサバーの関係には、日本の同人誌の場合のような「機微」がある。 ましてかれらは英語版とスペイン語版くらいしか用意できない。ファンによるマルチサブが広まると、 こうした複雑微妙な力関係がどうなるのか、予想もつかない。

アニメのファンサブファンのなかには「字幕版DVDは発売されなくていい。特にダブは要らない」と言い切る者さえいる。 いつもいつもライセンスされるせいでかえってアニメが見られなくなり、何年も待たされたすえにあまり良くない字幕が出ることに失望しているのだ。 特にカット・編集・勝手な改作が多いのは当然、ファンからは嫌がられる。 例えば、仮にあなたがアイルランドのファンタジー映画のファンだとして、その映画の日本語版を作る会社が、 話を一部カットしたり設定を変えたりしたら嫌だろう…。 映画ではよほどのことがない限りそういうことはあまりないと思うが、歴史的に日本のアニメはかなりひどい扱いを受けてきた。 だが「翻訳版が発売されないほうがいい」などというのが、本当に正しい態度でありうるのだろうか。 どう考えても何かが間違っている。 いっそのことADVはプロの翻訳者など雇うのをやめて、ファンサブのスクリプトでDVDを作ればいいのではないかとさえ思える。 チームにもよるだろうが、フリーでスクリプトを提供するところも多いと思う。 そうすれば翻訳コストはゼロだし、ピンキリとは言うものの、ちゃんと選べば、 キャラを知り尽くしたファンが訳しただけに、せりふのすみずみまで微妙なニュアンスが出ている。 北米版のようにアニオタでない普通のプロ翻訳者の「分かっていない」訳も減るだろう。 だがそのまた一方で、ファンサブにもとんでもないものが多い。結局のところ、プロの仕事かファンの仕事か、 ということは結果の品質と全然関係ない。

「フリー」を活用するビジネスモデル

そもそもライセンスを海外に売らないで、日本のDVD会社が直接外国語版を通販できないものか。 今でも海外から通販でR2のRAW(字幕なし版)を買う熱心なアニメファンがいる。 アニメを見たいがために日本語を勉強している人も珍しくない。 そうまでしてアニメを見たい人が多いのだから、字幕版の潜在的需要が大きいことは間違いない。 通常のビジネスモデルに乗るほどは大きい需要でないかもしれないが、 字幕自体はかなりの品質のものが無料で使えるから、 それを使えばビジネスとして成立する可能性がある。 Netscape と Mozilla みたいに、字幕部分をオープンソースにしてフリーウェアにして、 それと映像をくっつけて商品化すればいいのだ。非現実だろうか?

現実的にはいろいろと難しいだろうが、もし仮にそういったことが実現すれば、 低コスト(翻訳は無料)で高品質(その作品にほれこんでいるマニアの仕事)となり、 安く良質な各国語版が可能になり、品質が良く安ければ売り上げも伸びるだろうから、 ファンにとっても企業にとっても良い話となる可能性もある。 荒唐無稽に思えるかもしれないが、インターネットは従来の物理世界とあまりに質的に異なる場であるから、 従来の常識では考えられないようなソリューションが最適解ということもありうる。

インターネットによるリソースの高速・柔軟な結合の結果、 いくつかの分野では「プロ」の存在意義があいまいになってきている。 ソフトウェアのオープンソースや書籍雑誌などのテキストでそうであることは明白だが、 もしかすると次は字幕かもしれない。

身近な例で考えてみても、ウェブ上にはフリーの情報があるのに、 金をとって売っている雑誌で読者に嘘を教えて方々に迷惑をかけて平然としているものがある。 例えばそれ系専門を名乗る商用雑誌で「動画作成徹底ガイド」みたいな特集をくんで、その特集で読者を指導する「先生」が320x240でエンコさせていた、などという信じられない話を聞いたこともある。 すべてがそうというわけでなく、きちんとした商品も多いし、ウェブ上にも間違いは多いのだが、 有料か無料かということは、あまり内容の良し悪しと関係ないみたいだ。 4kids批判の人が言うのもそれと似ていて、ああいうDVDを買うと「日本のアニメなんてつまらない」という誤解につながる、というのだ。 ファンサバーはいつ訴えられ捕まるか分からないと覚悟はしているとはいうものの、 香港DVDの字幕のような粗悪な海賊版を作って売って逮捕されるならともかく、 本物よりいいものを作ったせいで(しかもそれを無料で公開したせいで)訴えられるのでは浮かばれないと思う。 だからといって版権問題が正当化されるわけではないが、 大局的に「もっとうまいやり方があるのに、そうなっていない」という感じ、生産システムが最適化されていないという感じは否めない。

サバーは結局「それでも、そうしなければ日本国内でしか知られないお気に入りの作品のファンが世界に一人でも二人でもできたらうれしい」 という自己満足でやっているのだろう。 作品の版権元より作品自体のほうが大切という、自己矛盾した、 割に合わない、クレイジーであほらしい趣味だ。

しかし、いろいろと考えさせる要素があるのも確かだ。

歴史覚え書き

現在(2000年代)のファンサブについては、進行中のことであり評価が未確定だが、 1990年代までのファンサブについては、その歴史的役割に対する評価はほぼ確定している (Sean Leonard: Progress Against the Law: Fan Distribution, Copyright, and the Explosive Growth of Japanese Animation, 2004)。 Tomodachi Anime のファンサブ翻訳者 Rika Takahashi が現在プロサブ翻訳者として広く活躍しているように、 アメリカ合衆国においてファンサブと商業アニメは——精神的だけでなく実務的にも——相当の協力関係にある。

ファン活動とプロ活動の両方をやっている人は、決して例外的ではないが、 明白な理由から、その事実を積極的に公にする者は少ない。 プロサブとファンサブについてファンベースの評価はほぼ確立しているが、 その技術的優劣を技術的観点から論じられる立場の者は限られており(例えばDVD会社に勤めるアニメファンなど)、 これまた明白な理由から、具体的な作品名や例などの客観的証拠を挙げて比較することができない立場にある。 たとえ匿名でやっても、その記事は誰が書いたか分かる人には分かってしまうからだ。 しかしながら結論的に日本のプロと同人の活動で(多くの場合)質に差があるのとは対照的に、 海外で、正規の発売元がやることとファンがやることの間には質的な差がなかったり、 逆転していることが少なくないということは指摘できる。 日本のファンが、日本でプロとアマは違うという常識を海外にも類推適用しようとするのは自然なことだろうが、 何せ海外のアニメ事情では創造といってもせいぜい吹き替えで、 今のところ本当にアニメを(独自に)作っているわけではないので、 正規発売元と言っても二次創作、本質的には日本で言う同人と大差ない。 もちろん吹き替えにも素晴らしいものがあるが、そういう問題ではなく、それが一次的な創作ではないということが。 例えば「各国の倫理観などで仕方なく編集してしまう」のは仕方ないとしても、 正規の発売もとがたいした理由なく作り替えてしまうことは良くも悪くもアマチュア的だ。 例えば…そうですね、イニシャルDの吹き替え版では音声だけでなく、 作品中で背景で流れる音楽も全部入れ替わっている。二通りに楽しめて好きですけど、 こういうのは一次創作とは呼べないでしょう。 ストーリーだけ同じで勝手に音楽を入れ替えるわけですから。 この場面に合う音楽は何かなと(原作に音楽がないところまで)AMVのノリですよ。 日本で、例えばフランス映画の吹き替えでこんなことをしたら、大問題になるでしょうが、 それが許されているということが、良くも悪くもこの世界の若さなのだと。

現在、デジサブ技術の急速な進歩もあり、 グループが増え、淘汰が起こり、総体的にはファンサブ全体が質・量ともに上昇している。 一般の方は翻訳の品質くらいしか見ないかもしれないが、 字幕の品質にはタイミング、タイプセッティングなどいくつかの要素があり、 技術的には、現状、平均的に、プロサブの方が質が低い。 個々の例での差が非常に大きく、評価する者によって観点も異なるが、 DVDという古いメディアの物理的・規格的制約はいかんともし難い。 「質が低い」と言っても、作り手が悪いのではく、規格の制約から来る部分が大きい。 もっとも作り手の企業の側が、商業という目的上仕方ないことながら、 ファンサバー一般と比べて情熱や愛に欠けていることもあるかもしれない。

それでもある種の義務感から、ライセンスされたときにはプロサブを購入する良心的なファンも多い。 今のところ、ファンサブの方が良いからといって、プロサブが無視されることは起きていない。 プロサブ側の人間もファンサブ出身者が多いせいもあるだろう。 ボランティアのSASEから始まった内気で、まじめな世界、日本で興隆している単純なファイル交換などとは違う。 ライセンスに対する倫理観は「歪んだ」倫理観ではあるが、概してコミュニティーの倫理意識は高い。 ファンサブがオークションで売りに出されると、それを作ったファンサバーが、 オークションを主催している会社に対して、著作権侵害の警告を行うことがよくあるが、 非常に象徴的だ。理論上は厳密に言えば、ファンサバー自身も侵害者のはずなのだが、 上記のように、ファンサバーは一般に、自らの認識としても、周囲の認識としても「ホワイトハット」である。 ライセンスされているものをファンサブする「自由主義」の(「古典派」から見れば「倫理に欠ける」)ファンサバーですら、 アイキャッチの部分などに「これはフリーファンサブです。売買しないでください」のような警告を入れることが多い。 だからといってファンサバーが正義であるということにはもちろんならないが、 これらの事実はファンサバーが主観的には強い正義感を持っていることを示しており、 日本のWinnyなどとは似て非なるものがある。

ファンサブの発展に伴い、ファンサバーの価値観も多様化し、 特に、商業との共存共栄(いわゆる「ライセンスされている・いない」の問題)に対する倫理観は一致を見ていない。 今でも「古風」で律儀な考え方をするチームが多々ある一方で、 ライセンスを厳密に守るファンサバーの間ですら、 「公式版」が非公式のファンサブ版より低く見られる傾向も根強く、 一部には、企業の活動を軽視し、尊重しない風潮もある。微視的に個々の質だけを考えれば、 確かにファンサブ版の方が優れている場合もあり、 優れたものに比べて劣ったものが軽視されるのは自然とも言えるが、 より長期的に考えるなら、 ライセンスされた企業を尊重しないことは、 アニメファンが自らの首を絞めることにもつながりかねない。

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自己犠牲への依存

2007年11月27日
記事ID d71127

現場の献身的な自己犠牲を前提に成り立ってきた世界は、 犠牲を排する「正常化」が難しい。

必ずしも「不当」な労働環境であった、というわけではない。 むしろ自発的な自己犠牲で成り立っていたのだろう。 お金・権利・義務・契約といった法律関係だけでない動機づけ。 医療においては人の命を救い、感謝されること。 アニメにおいては無生物に「魂」を与えること(アニメート)。 学術的・技術的な挑戦。 そうした現場の努力は基本的に純粋で善意であったとしても、そこから巨大な利益をくみ上げる構造ができ、 利益追求のつけがますます現場に押し付けられるようになれば、 だんだん機能しなくなる。

ANNの2007年11月25日づけ、 Editorial: An Open Letter to the Industry by Justin Sevakisをさかなに、書いてみたい。 リンク先に対するコメントで、リンク先の内容そのものではない。

「海賊版をなくすには、それに代わる正規版を流通させなければならない」という結論は当たり前で、 遅くとも2004年には問題提起されている。小学館のかたが、真空地帯にしてしまうと海賊版を駆逐すればするほどかえって市場を奪われてしまう現状を指摘し、 対策が必要であると述べていた(日本製アニメとマンガの国際戦略)。

また日本語版との遅れが数日程度で正規版を配信すればいいというのは理想としては正しい結論なのだが、 それが日本市場に悪影響を及ぼさないことについて「日本語版は(Winny等で)今でも自由にやりとりできるのだから、 英語版が出ても出なくても変わらない」というのは論理に無理がある。 正規版を流通させよ、 という説の根拠がそれでは。

北米のファンの現状を保つために「ダウンロードできても1話5800円などのものを買う」日本のファンの、 自己犠牲的・献身的・異常的行動を前提とすること。 「北米ファンは5800円など出せないから、今のR1的な値段で配信しろ。 日本のファンにR2の値段を払わせて回収すればOK」という論理が成り立つなら、 その値段では中国で売れないから10分の1で配信するが北米ファンは同じものに10倍払え、といったことが限りなく出てきて、 経済ブロックとネットの同時性との矛盾が噴出する。

(間違った発想)

DVDは売り上げの一角に過ぎないのだが、 中間の効率の悪さを象徴する話ではある。 制作は安く、小売は高く、普通なら中間が大もうけのはずなのだが…それも嫌な話だが、 一般にはそれすら成り立っていない。 中間が多段過ぎるのかもしれない。 音楽業界と違って産業の非効率構造をネットのせいにしないところはいいけれど…。

低賃金の関係者によって支えられていて、正当な労働条件を整えたらほぼ成り立たないと予想されること。 小さなスタジオなどから、ファンに届くまでの、中間の効率の悪さ。 小さな規模では何とかなっても、大規模に拡大するのは難しい。

そうしたなかでも、なお、けっこう良いものも生み出しているのはすごい。 すごいが、それは現状でいいという意味にはならない。

北米に限らず外国人ファンは、しばしば日本は小さな島国で、住んでさえいればテレビで無料でいくらでもアニメが見られる、 と錯覚している。よく知らない国のことを単純にイメージするのは仕方ないが、 実際問題、全国ネットの作品ばかりではなく、東京に住んでいても見れないのはあるだろう。 地方のUHF局などを中心に、あるいはそもそもテレビと無関係に制作するのは、 現在の状況の中で多様性を保つ自然な反応と思われる。 ところが上記記事の趣旨によれば、日本全国どころか、それを直ちに全世界に流せという。 全国でやるとうまくいかないから、わざわざこうしているのに、かなり無理がある。 仮に日本国内では問題なくても、国によってはタブー表現などもある。 同時性は最終的な理想像としては間違っていないが、 ワンステップでは変われない。 事前に内容を調整できるしくみも必要になる。 「何があっても日本は良い作品を作り続ける」という大前提も、もちろん成り立たないし、 駄作でも全作品、同時配信…というわけにもいかないだろう。 ピックアップして配信するとなれば、結局ライセンスされている・いない問題と同じになって、 「正規版を流通させればいい」という議論の前提も崩れてしまう。

ファンのこと

当たり前のことだが、良心的なファンも多い。 同人活動などで形式的に二次著作権などに触れていたりしても、 またそれを支持することで倫理的には同罪であるとしても、 原作に迷惑をかけてやれという破壊的・邪悪的な意図があるわけではない。

ファン活動の罪悪感のメインは、法律的なことではない。 少なくとも、北米のファン活動にとって法的脅威はリアルではない。 警告文を受け取ったらやめれば大丈夫という常識がある。 日本の二次創作活動でもよほど悪質でない限り、いきなり訴えられることはないだろうし、 いろいろあるとしても多くは善良であり、 ゲーム関係だったら、版権元でルールを作ってうまく共存している例もある。 アニメはそこまで小回りがきかないかもしれないが、 制作スタッフとファンがいっしょに作った同人誌も実際ある(今の時代は無理かも)。

では、ファンのこころの痛みとは?  核心は、自分たちが(良いことか悪いことかはともあれ)一生懸命やればやるほど、 その周囲に「吸い取るだけの無気力なファンもどき」を吸着させ、 作品を応援するファン活動のつもりが、 実際に、盛り上げているのか長期的には盛り下げているのか分からなくなってくることではないか。 「自分もファンだ」と称する相手が、みにくい要求(「だから全部コピーさせて」)をつきつけることではないか。 人によって違うだろうし、そういう混沌も土壌のうちなのかもしれないとは思う (*)。 また入手困難な旧作について、後からファンになった人や学生などで本当にお金がない人がコピーさせてというのは、 ことの是非はともかく理解できる。けれど新作で買いたければ買えないわけでもないとしたら、 無気力と思う。

(*) 漫画・アニメの世界ではオマージュやパロディーはもちろん他の作品を「資料」とすることはプロの間でも珍しくはなく、 最近の講談社のトレースの問題などは少々極端だが、そういったことを問題にしているわけではない。

そのほかに次のようなファン活動特有の葛藤も存在するだろう。

技術的な限界
一般に二次創作は「へたに書き直す」ことなので、楽しいことだし、 そうやって将来活躍する技術を身につけるかたもおられるだろうけれど、 そこにはある種の申し訳なさもある。 不明瞭なせりふ。どうしても聞き取れないで、仕方なく適当に処理してしまうとき。 後から間違いに気づくとき。こうすれば良かったと後悔するとき。 能力の限界であやふやに処理してしまうとき。 同人誌なら「こんな下品なパロディーにしてしまっていいのだろうか…」という倫理的な後ろめたさ。
原作の問題
いくつかのエピソードに分かれている物語で、良い話があればそれほど良くない話があるのは自然の成り行き。 普通のファンなら「今回はつまらなかった」「後半はまるでだめ」など批評していればいい話だが、 例えば最終回が破綻していると、それを届けるのはファンに対して申し訳ないところがある。 純粋な商業なら1巻にまとめて売れば済むことなのだろうが、ファンとしての感受性はやや異なる。
原作を変えてしまう
技術的な限界ではなく、意図的に変えてしまう場合、 例え標識の誤字をちょっと直すくらいでも、いろいろとジレンマはある。 間違いが分かっていて放置するのもどうかと思うが、勝手に変えるのもさしでがましい。 「勝手に」「こっそり」変えてしまうのは、両方向に倫理的責任を感じる話だ。 ファン活動というより動画一般の話だが、広く解釈すると、一般に動画をエンコードするときのノイズフィルターでさえ原作を変えてしまうし、 色あせている旧作に自分の考えで色補正をかけることもそうだ。

ジレンマは、必ずしも「ファン活動の結果が悪い」ということではない。 ドラえもんの最終回の話のように、クオリティーが高ければ高いほど、 それはそれでまた別の問題を生じてしまう。 一次との契約関係などのない「勝手な」活動である限り、悪ければ悪いで問題だし、良ければ良いで問題だろう。 どっちかというと、良い方が問題が大きいのかもしれない。 (悪過ぎれば、ほかのファンからも単に無視されて終わるので。)

ファンはファンとしての新しい文化を作りはするが、作品を盛り上げる・広める試みも結局、逆効果になることもある。 北米の初期はファン活動が非常にうまく働いたが、それはファン活動そのものの本来的善悪とは関係なく、 いろいろな偶然的要因の結果だ。因果関係として「ファンの純粋な情熱」が奏功したわけでも、 「著作権で締め付け過ぎない自由な発想」が奏功したわけでもなく、 あくまで「結果的に」そうなっているだけだ。 この種のファン活動がせつないのは、 「自分たちの活動が必要ない世界が早く来ますように」という自己否定に向かって活動している点であり、 さしあたって、自己否定という目的さえ否定されていること、 少なくともワンステップでは、そんな展開になりようがないことだ。

理論上ではファンは「低コストで高品質のリソース」となりうるが、そういう形でファンの自発的自己犠牲に依存すれば、 今と同じ根源的問題を別のところに移しただけ。 ソフトの世界ではオープンソースが力を持ちプロプライエタリとうまく並立しているので、 それに似たことがほかの創作的分野でも起きないか、というのは未来のモデルとしてはおもしろいだろうが、 現実的に急には無理だろう。

産業構造の非効率などはファンがどうこうしてどうなる問題でもないが、 投影される気持ちには理解できる面も多い。

追記

少々オブラートに包んだ言い方が多過ぎたので、念のために端的に…。 日本のアニメ産業がやばいのは前々からのもっと根本的な問題。 ネットで違法コピーがあるから現場が貧困なのではないし、 誰もそんな責任転嫁はしていない。 北米のファンのせいではないのに自意識過剰だ。 罪悪感とか危機感とか、気持ちは理解できるし、長期的なビジョンとしては、同時配信は理想で正しい未来像だが、 輸入で成り立つ北米の産業が守れても、輸出元が倒れたら意味がない。 理論上、英語版を同時に用意すれば英語圏での問題は解決するかもしれないが、 英語だけ用意すれば世界のアニメファンの問題が解決するというのも近視眼的にすぎる。

2007年11月のComcastの件などとの関連で、言いたいことは分かる。 ファンにとって心配なのは「アニメが無料で見れなくなること」ではなく「アニメが見れなくなること」だ。 だが権利者が仮に自分で自分の首を絞めることを選んだとしても、それを選択するのはまさにかれらの権利である。 商業として割り切るならマニアの要望より、ぬるく平均的によく売れる商品展開を選ぶのもまた当然だろう。 これについて感じることを言うならば、

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